学校に行ける!←躁()
こんばんは。宮岡です。
つい先日までただの不登校でした。
まあ、月も火も学校には行っていないのですが、活発に動けるようになってきました。
ちなみに昨日は5時間睡眠で、もう集中力が全然持ちませんでした。
しかし、頼みの綱である数学の複素解析(出席取ってない)の範囲をYouTubeで鬼のように詰め込んでいる最中。
今、大体6時間ほど勉強したところです。あと、6時間やればいけんじゃないか説が濃厚になってきています。
今度こそ治ったと信じていますが、この後またうつ状態が来た場合はおとなしく病院に行って、薬飲みます。
国語の先生になろうとしていましたが、やっぱり心理学を学ぼう・心理学の卒論に向けて勉強しよう、というモチベーションがないと他の全ての分野にも波及するほど無気力感がありました。
そもそも、「言語って不思議だな」っていうところから国語の先生になろうとしていたので、ちょっとベクトルが違ったのかもしれません。
言語って本当に不思議ですよ。
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僕はおととしの夏、別の大学の友達が組んでいるバンドのキーボード役の助っ人として2日だけ参加した。
80歳になったときの、20歳の僕は、4年間その友達とバンドをしてるかもしれない。
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というしょうもないポエムを先ほど思い付きました。
意味が分かる人にとっては、「記憶のはかなさ」や「人間の有限性・生物としての限界」を感じさせられるものであると思います。
しかし、ただ「記憶は儚い」と言われたところで、イマイチピンときません。
言葉には弾性エネルギーがあるように思います。
理解するまでのバネの縮みを、理解したときに運動エネルギーに変えるような、そんなエネルギーが込められているような気もします。
実際、学校の授業でも、「わからなかったところ」を先生に質問しに行った箇所は、記憶に強く残ることがよくあります。
あれ、記憶の話してたっけ。