休み時間、あと4分だけど思い付いたのでブログ書きます。
こんにちは。宮岡です。
今、哲学の授業を受けているのですが、あることを思いつきました。
どう考えても書ききれないのですが、あと4分で頑張って書いてみようと思います。
今、13:58。
知的好奇心の話です。
僕は、知的好奇心の高い方だと思うのですが、それに伴っていくつかの弊害もあるなと感じました。
そもそも知的好奇心が「夢見がち」「妄想癖」のような心の特性を伴うからです。
僕は一時期、経済を副専攻として履修していました。
理由は、「経済について何も知らなかったから」です。
何も知らない世界について、非常に詳しく知りたいというのが僕の特性です。
もっと正確に言うと、知らない領域は輝いて見えます。
比喩でも何でもなくて、「知らない領域」にまぶしさや、夢、無限な広がりを感じるのです。
好奇心というのは「奇(知らないもの・変なもの)」を「好(む)」、「心」と書きます。
要は、知らないものに夢やロマンを感じて飛び込んでいく心の持ちようが、いわゆる「好奇心」ってやつです。
(あれ、4分すぎたけど、先生来ないな。書き続けようか)
だからこそ、「経営」とか「起業」という未知の領域に興味があるから、将来の夢までもそこに固定してしまったり、「研究」という無限の広がりを感じるから、特に理由もなく大学院進学を長い間目指していたということです。
面白い性格と言えば、面白い性格だし、「知的好奇心」っておもろいな、って思えばそれまでなのですが、やっぱりリスクテイキングすぎます。
そんな中、僕の中では確固たるものとして、「教えるのが好き」というものがあります。
そして、最近では「国語の先生になろっかな」とか言い始めました。
なんか、ここでも未知の領域、知らないものを好む傾向が出ているような気がします。
とかいう、メタ認知が非常におせっかいなので先に進みません。
助けてください。だれか。
あ、つまり、このブログで言いたかったことは、「知的好奇心」ってのは「unknown seems delightful」だよねってことでした。以上です。
14:05。普通に7分だったわ。
で、今先生が来ました。
心はいつも「創造」か「破壊」か
創造することには、フローを経験するが、
そうでなければ即破壊。
心すら打ち砕かれることになる。
作るか壊すか。(create or destroy)
二者一択である。
負の感情・正の感情も破壊と創造に対応しており、
ローもハイも、破壊と創造に対応している。
一旦、感情のグラフをy軸方向に平行移動したほうが良い。
それは、皆そうである。
しかし、なにか要らない保存則がそこには働いていて、感情の平均値は個人によらず一定になる原理が裏を引っ張っているようなのだ。
だから、人は破壊せざるを得ない。
したがって、僕は物が無いときに椅子を投げます。以上。はい。
「やることが多い」という幻覚
やることが多い、という心の動きをそのまま口に出しているだけで、これは事実ではない。
全ての言葉・文章には、事実であるものと、単なる感情であるものがある。
「忙しい」は頭がパンクしていると認識する時のニューロン発火の表現であるし、「辛い」は感情が渋滞している鼻にツンと来るような、もしくは鬱なニューロン発火の表現である。
「今日ケーキ食べたんだよね」は事実だけど、「そのケーキ美味しかったんだよね」は感情である。
「上司が不機嫌だったんだよね」も感情である可能性が高い。
自分が不機嫌だったから、上司が不機嫌に見えただけかもしれないからだ。
「お腹が痛くてテストできなかった」というのも、プライドが高く、テストの点数を過剰に期待していたが、その心的状況を自分では把握しておらず、不思議とそのプライドと期待に傷つけられようとしている、その一連の力動を阻止しようとしている気持ちである。
「言い訳するな」や「因果がおかしいよ」という茶々は、ほんとうにただの茶々である。
一種の感情表現にいちいち首を突っ込んではいけない。これは事実ではないのだ。
「辛いね」と共感するのが一番やわらかい返し方だ。
レッテルに踊らされる自分
こんばんは。宮岡です。
明日は心理学実験なので、絶対に朝寝坊が出来ないのですが、どうしても寝られません。
最近、夜になるとネガティブになりすぎて、寝られないことがあります。
先日から、ただの曝露マンになっていますが、僕は諸々心の病なり疾患なりを持ち合わせて生活しております。
心の病という概念はとても便利なものです。
「病理」とみなすからネガティブなものに見えてきますが、僕らはもともと「性格診断」や「脳内メーカー」で、自分の性格の要素を還元していこうとすることに快楽を覚えているではないですか。
それの真骨頂が精神病理なんです。
ある病名がつけば、それが最高の性格診断になるんです。
しかし、この「性格診断」は時にレッテルとして作用します。
たかが、一単語でおさまる病名が僕の本質に侵入してこようとするのです。
「出来ないこと」を病理で説明することは簡単です。
しかし、出来ないことと出来ることの間には、「ギリギリ出来ること」が存在しています。
病名を以て、自分にレッテルを貼ると、「ギリギリ出来ること」が「出来ないこと」にシフトしていきます。
それは、不連続的ではなく、連続的で、「むしばむ」という言葉がうってつけです。
その、心の動きを観察しているとき、僕は必死にその侵入を制止しようとします。
そして、「僕には出来るんだ」と言い聞かせようとします。
しかし、そこで思い返されるのは「出来ていない」ときの記憶。
結果的に、学習性無力—何をやったって無駄だ―全てのことは「出来ない」という観念に結びつきます。
僕は、社会的な生き物としてはかなり無能です。
そして、「無能だな」と言われても怒らない当たり、僕は自分でも無能さを受け入れているのでしょう。
オフの時間が長いので、オフの時間に来たLINEは返せないし、オフの時間に開講されている授業には行けません。オフの期間に開催されるライブに向けての練習には全くもって身が入りません。
そういう経験を経て無能感を感じるようになり、嫌な気持ちになります。
そして、病名を思い出します。
病名を思い出すことで、「頑張ればやれていたこと」に「頑張らなくていいや」と思ってしまいます。
そこで葛藤をして、勝手に心が疲れるんです。僕が疲れるんじゃない。その司令塔が勝手に疲れるんだ。
僕の魂が疲れる訳ではなくて、僕の乗り物であるからだが勝手に機能不全に陥ってしまっているんだ。
という、自己憐憫に日々もてあそばれているわけです。
この、自己憐憫はリストカットと同じようなもので、どうやら脳内麻薬のβエンドルフィンを分泌させるトリガーになるそうじゃないですか。
βエンドルフィンは、ドーパミンを誘導して、それと相まって快楽をもたらしてくれる。
そう、このいかにも辛い非生産的な精神活動は、このβエンドルフィンによって中毒化している。
そして、自動的反応として、僕の脳内で表出する。
結論、こういった鬱な文章を書くということに陥る。
僕はこうやって文章を書いている間は、本当に頭を使っておらず、一切疲れない。
ブラインドタッチも出来るし、文章力もないでは無いので、こういう考えを発信することはきっと向いています。(見てもらえるかどうかはさておき)
つまり、僕は体を通して世界に働きかけるのではなく、脳を以て世界に働きかけたい。
一元論であろうが二元論であろうがよい。(僕の頭の中では一元論のイメージが膨らんでいるが)
つまり、脳だけ取り出して、静かにPCの前で僕の考えを発信して、書籍や授業動画を配信するのが一番いいのではないか。
しかしながら、僕はなぜか平均のコミュ力を有している。
幸いなことに、コミュ障みたいな喋り方で、平均的なコミュ力を有しているので、もはや、僕のコミュ力は中の上のようなものだ。
人と関わるのが良いのかもしれない。
考えを伝える立場を手っ取り早く得る方法は、公務員として、つまり教師として働くことだろう。
しかし、そこにネット活動を制限するような何かがあるのであれば、却下。
とは言え、そもそも、この社会的に不適合な僕が事務作業や諸々をこなしていかなければならない教師の職が向いているかどうかはわからない。
根本的に、僕は教えるのが下手だ。
教えるのが上手い人の真似を2年間絶えずやって来たから、いつの間にか「説明上手い人」という印象になってきた。
しかし、上記の行動を「努力」とは呼んでほしくない。「頑張り」とも呼んでほしくない。
心の中の「張力(糸を引っ張る力)」は0に等しかったからだ。
つまり、何の辛い思いもせず、ここまで来た。
もはや、教えることにはセンスがあるのではないか。
しかし、上の下か、上の中だと思うのだ。
チャンピョンにはなれない。
ああ、やっぱり有能でありたいという強い根源的願いが僕には染みついている。
名前の「大」という字が、「将来、博士か大臣。大物になる」という父のメッセージを担っているので、有能でありたい、ビッグでありたい、という小さい頃からの何かがある。
まして、大学のランクを5つか6つ落として広大に来たものだから、僕のその願いは今や爆発して、不完全燃焼。一酸化炭素を充満させている。
なるほど、ここでも「大」という名前と「広島大学生」という肩書がレッテルになっているのか。
結局、「その人の本質」なんて幻ではないか。
ヒトというDNAに刻み込まれた本能を差し引けば、人間は元来白紙の状態。
本質などない。
経験を通して色んなものをつなげていく。数珠つなぎマシンだ。
しかし、人間は一つ面白いことがある。
この文章を読んだ全ての人は、今僕の脳内で起きている絶妙に不快なニューロン発火を同じように経験しているということだ。
文字を通して、他人のニューロンを操ることが出来る。
このような「遠隔的コミュニケーション」が取れるのは僕ら人間だけである。
面白い。言語は面白い。
そして、普段なら、「赤色」の文字は重要であることのサインであるにも関わらず、上記の「言語」の赤色は何か狂気を感じるのも面白い。人間だからそのような認識が出来る。
もはや、「言語」という言葉になにか闇が連合してしまったのではないか。
古典的条件づけが絡んでいるかもしれない。
「言語」という言葉と、読者が経験している僕と同じ微妙に不快なニューロン発火が連合を起こしているかもしれない。
ここまで来たら何を言っているかわからないかもしれないが、とりあえず、心は晴れました。
カタルシスといって、表現をすれば心が晴れるというものがありますよね。
このブログに書いたすべてが、僕の心の闇を支配している虫でした。
とりま吐き出せた。よかった。
わざとネガティブになるのもアリ
こんにちは。宮岡です。
手短に。
やる気が起きないときに、一つ有効だな、と思ったのが
「ベッドでうなされる」というものです。
どういうことかというと、ベッドでうなされることによって、心理的負荷がかかります。
ストレスとでも言いましょうか。
身体というものは、ストレスがかかると、それに抵抗しようとします。
反ショック相といって、一時的に覚醒度が増します。
この覚醒度の増大によって、ひとまず体が動きます。
具体的には「図書館に行かないかんのにいいい....」ってうなされながらベッドで耐えていると、数分後に体がピョーンと動き始めます。
どうしても体が重いときにはお勧めです。
「脳」に踊らされる自分
こんにちは。宮岡です。
今日の朝はあまりにも元気がなく、呂律も回らない状態で、心配をかけた方はすみません。
午後もずっとベッドにおり、さっき復活したのでブログを書きます。
昨日、あまりにもやる気が起きず、異常を感じたので心療内科で診断してもらいました。(昨日は超元気だったので「今しかない!」と授業をさぼり市内に出かけました)
度重なるミスで、自信を失ったのが原因かなぁと思います。
薬を処方してもらい、副作用かなんなのかわかりませんが、あまりにも眠く、今日も1コマを寝坊し、授業中もずっと寝ている状態でした。
鬱状態による「辛い気持ち」はなくなったので、効果はあるようです。
ただ、今も頭を使って何かをすることは出来かねます。
頑張ればできるけれども、頑張れねぇな、というのが実際。
うつ状態から抜け出したら、再び将来の人生設計をしていきたいと思います。
国語教師になるのはアリだなぁと感じています。
でも、ちょっと連絡を怠ったことで、人に迷惑をかけたり、ちょっとの日程確認の漏れが続いたりで、「無能」というレッテルを貼られていると感じるのはとてもツラかったです。
僕が「有能でありたい」という気持ちが強い方であるから、というのもありますが。
とりあえず、1週間ほど様子を見たいと思います。
最近モチベーションがやばい。
こんばんは。宮岡です。
今日は、友達とラーメン屋さんに行って、その後1人でカフェで読書して、映画を見に行き、本を買って、ネット活動をして、充実した1日でした♪
僕は、最近将来のことについて深く悩んでいます。
そこで、ネットのみなさんと色々お話をしました。
ーー
「塾を建てたい」そういう、ただの僕の戯言。
「起業ですか!いいですね!」というリスナーのコメント。
僕は、いつから塾を建てたいと思い始めたのか。
ーー
好きなこと・興味のあることで生きていこうと思える人ほど強いものは無いと思います。
僕は、この上なく「教える」ことが好きです。有能でありたいという気持ちの先走りなのかもしれませんが。
しかし、就職という手段に何か壁を感じていて、その根源は高1の時に診断された発達障害だと思われます。
僕自身、絶対そんな診断信じてやらねぇよという気持ちで生きていますが、どうしても「絶対、発達障害でしか説明できないよな、これ」っていう事態に直面します。
最近そういう出来事が積み重なりすぎて、自尊心が地の底まで下がっていました。
つまり、何のために生きてるか分かんねぇな、これっていう状態です。
時間は守れないわ、気分の波は激しいわ、仕事期限に終わらせられないわ、
これじゃただの無能じゃねぇかと。
先ほどもチラっと書いたように、「有能でありたい」というのが僕の強い欲求なようです。
恐らく、性格の一種なんでしょうね。
深読みをすれば、「有能でありたい」という性格をもつことで、無能さを克服できるから、宮岡という本能がそうさせているのでしょう。
すこし前に読んだ本で、エニアグラムという性格の9分類を学びました。
エニアグラムの教えによると、「人間は弱みや欠点があって、それを補強するために性格という盾を手に入れた。だから、その性格を手放せば、他の自分の可能性も経験できる。その性格による感情や欲望、行動は、自動的反応であるからだ。」という(多少意訳しています)
そういう所もあって、自分の欲望のままに生きることに疑問を感じていました。
だからこそ、塾に就職したり、学校で先生をやるということに抵抗を感じていたのだと思います。
それから、高1のときに僕は荒れていました。
衝動的行動を抑えられず、行動だけが独り歩きしている状態に、自分自身も困惑していました。
机を急に殴り、それに対してイライラした友達が舌打ちをしてきたことに対して、大声を出し、机を薙ぎ払って、友人3名ほどを怒鳴りつけ、しまいに静止にかかった交際中の彼女の手も振り払い泣かせてしまうという、過去最悪の出来事がありました。
この日は、担任に「早退します。」とだけ告げると、異変を感じた担任が別室で僕と話してくれました。でも、僕は声が一切出ず、表情も一切作れずに、虚無の状態で数十分を過ごしていました。
担任もこのことに悩んでいたように思えます。-これと関係があるかどうかはわかりませんが、その担任は翌々年で教師を辞職したそうです。
この辺から、人の罪に対する考えが変わり、「ああ、犯罪はこうやって起こるんだな」という信念を強く持つようになりました。
―一歩間違っていれば、僕はお縄だった。
高2の時は、「とにかくストレスをかけないように生きよう」という想いでした。
だから、宿題はやらず、部活も手を抜き、極力怠惰に生きるように「努め」ました。
この辺から、「努力できない人」「頑張れない人」に対する見方も変わりました。
高3でようやっと復活したように思います。
高2ぐらいで、リアルの友達ではなくネットの友達を増やしました。
そこで、出会ったのが超非行少女です。(実存しているかはわかりませんが、心には強く残っている存在です)
友達を殴り、警察のお世話になっていたり、いじめられて、不登校になっていたり、他にも様々な苦難を抱えている女の子でした。(3つ下だったかな?)
彼女の衝動性は、自動的で、抑制のしようがないように思えました。
心なしか、学習障害の節も見て取れました。
高1・高2の僕と重なる部分がありました。
―教育が悪いんだ。
無意識にそう思っていたように感じます。
最初は、頑張れない人・犯罪すれすれのことをしてしまう人に対する風当たりの強さを変えたいという気持ちでした。
むしろ、日本人皆を洗脳したいとまで思っていた節があります。
「犯罪者は悪くない」「加害者こそが被害者だ」「頑張れない人も、努力を微分すればどこかしらで努力をしている」
―色んな理論を僕の中で作っていきましたが、どうそれをOUTPUTするかがイマイチでした。
そこで、塾のバイトを始め、YouTubeで教育コンテンツを発信し、パッと思い付いたのが塾を経営しようという考えだったのでしょう。
非行を更生する前に未然の教育だ。-ひとまず、この考えがずっとありました。
なるほど、こういう僕の考えや信念、ポリシーをすべて満たすことのできる手段が「塾を建設すること」なのかと。
最近、「塾を建てる~」という雰囲気みたいな考えが頭を雲のようにウロチョロしていただけで、目的がよくわからず、将来の道筋を失っていたような気がします。
本音のところ、子供があまり好きでないので、より重要な幼児教育に携わる気持ちはありませんが、中学生・高校生のメンタル面の問題や読解力の問題を如何にシステマチックに伸ばせるかということを考えています。
読解力については、本を読むことで得られる人生へのヒントが掴めると、悩みがあっても解決できる可能性がある。そして、英国数理社の科目で躓いても自分で勉強できる力があれば、学校の50分:10分(=授業:休憩)という内訳に耐えるだけのレジリエンスにもつながる、という発想からです。
なんか、久々に硬い文章を書いた気もしますが、今日は色々ブラッシュアップされる一日でした。
明日からの僕は一味違う。そういう「これから」にしたいですね。