レッテルに踊らされる自分

こんばんは。宮岡です。

 

明日は心理学実験なので、絶対に朝寝坊が出来ないのですが、どうしても寝られません。

最近、夜になるとネガティブになりすぎて、寝られないことがあります。

 

 

先日から、ただの曝露マンになっていますが、僕は諸々心の病なり疾患なりを持ち合わせて生活しております。

 

心の病という概念はとても便利なものです。

「病理」とみなすからネガティブなものに見えてきますが、僕らはもともと「性格診断」や「脳内メーカー」で、自分の性格の要素を還元していこうとすることに快楽を覚えているではないですか。

 

それの真骨頂が精神病理なんです。

ある病名がつけば、それが最高の性格診断になるんです。

 

しかし、この「性格診断」は時にレッテルとして作用します。

 

たかが、一単語でおさまる病名が僕の本質に侵入してこようとするのです。

 

 

「出来ないこと」を病理で説明することは簡単です。

しかし、出来ないことと出来ることの間には、「ギリギリ出来ること」が存在しています。

 

病名を以て、自分にレッテルを貼ると、「ギリギリ出来ること」が「出来ないこと」にシフトしていきます。

 

それは、不連続的ではなく、連続的で、「むしばむ」という言葉がうってつけです。

 

 

 

その、心の動きを観察しているとき、僕は必死にその侵入を制止しようとします。

そして、「僕には出来るんだ」と言い聞かせようとします。

 

しかし、そこで思い返されるのは「出来ていない」ときの記憶。

結果的に、学習性無力—何をやったって無駄だ―全てのことは「出来ない」という観念に結びつきます。

 

 

 

僕は、社会的な生き物としてはかなり無能です。

そして、「無能だな」と言われても怒らない当たり、僕は自分でも無能さを受け入れているのでしょう。

 

オフの時間が長いので、オフの時間に来たLINEは返せないし、オフの時間に開講されている授業には行けません。オフの期間に開催されるライブに向けての練習には全くもって身が入りません。

そういう経験を経て無能感を感じるようになり、嫌な気持ちになります。

 

そして、病名を思い出します。

 

病名を思い出すことで、「頑張ればやれていたこと」に「頑張らなくていいや」と思ってしまいます。

そこで葛藤をして、勝手に心が疲れるんです。僕が疲れるんじゃない。その司令塔が勝手に疲れるんだ。

僕の魂が疲れる訳ではなくて、僕の乗り物であるからだが勝手に機能不全に陥ってしまっているんだ。

 

 

という、自己憐憫に日々もてあそばれているわけです。

 

この、自己憐憫リストカットと同じようなもので、どうやら脳内麻薬のβエンドルフィンを分泌させるトリガーになるそうじゃないですか。

 

βエンドルフィンは、ドーパミンを誘導して、それと相まって快楽をもたらしてくれる。

 

そう、このいかにも辛い非生産的な精神活動は、このβエンドルフィンによって中毒化している。

 

そして、自動的反応として、僕の脳内で表出する。

 

 

 

結論、こういった鬱な文章を書くということに陥る。

 

僕はこうやって文章を書いている間は、本当に頭を使っておらず、一切疲れない。

ブラインドタッチも出来るし、文章力もないでは無いので、こういう考えを発信することはきっと向いています。(見てもらえるかどうかはさておき)

 

 

つまり、僕は体を通して世界に働きかけるのではなく、脳を以て世界に働きかけたい。

 

一元論であろうが二元論であろうがよい。(僕の頭の中では一元論のイメージが膨らんでいるが)

つまり、脳だけ取り出して、静かにPCの前で僕の考えを発信して、書籍や授業動画を配信するのが一番いいのではないか。

 

 

しかしながら、僕はなぜか平均のコミュ力を有している。

幸いなことに、コミュ障みたいな喋り方で、平均的なコミュ力を有しているので、もはや、僕のコミュ力は中の上のようなものだ。

 

人と関わるのが良いのかもしれない。

 

考えを伝える立場を手っ取り早く得る方法は、公務員として、つまり教師として働くことだろう。

 

しかし、そこにネット活動を制限するような何かがあるのであれば、却下。

 

とは言え、そもそも、この社会的に不適合な僕が事務作業や諸々をこなしていかなければならない教師の職が向いているかどうかはわからない。

 

 

根本的に、僕は教えるのが下手だ。

教えるのが上手い人の真似を2年間絶えずやって来たから、いつの間にか「説明上手い人」という印象になってきた。

 

しかし、上記の行動を「努力」とは呼んでほしくない。「頑張り」とも呼んでほしくない。

 

心の中の「張力(糸を引っ張る力)」は0に等しかったからだ。

 

つまり、何の辛い思いもせず、ここまで来た。

 

 

もはや、教えることにはセンスがあるのではないか。

 

しかし、上の下か、上の中だと思うのだ。

チャンピョンにはなれない。

 

 

ああ、やっぱり有能でありたいという強い根源的願いが僕には染みついている。

 

名前の「大」という字が、「将来、博士か大臣。大物になる」という父のメッセージを担っているので、有能でありたい、ビッグでありたい、という小さい頃からの何かがある。

 

まして、大学のランクを5つか6つ落として広大に来たものだから、僕のその願いは今や爆発して、不完全燃焼。一酸化炭素を充満させている。

 

なるほど、ここでも「大」という名前と「広島大学生」という肩書がレッテルになっているのか。

 

 

結局、「その人の本質」なんて幻ではないか。

ヒトというDNAに刻み込まれた本能を差し引けば、人間は元来白紙の状態。

本質などない。

 

経験を通して色んなものをつなげていく。数珠つなぎマシンだ。

 

 

しかし、人間は一つ面白いことがある。

 

この文章を読んだ全ての人は、今僕の脳内で起きている絶妙に不快なニューロン発火を同じように経験しているということだ。

 

文字を通して、他人のニューロンを操ることが出来る。

 

このような「遠隔的コミュニケーション」が取れるのは僕ら人間だけである。

面白い。言語は面白い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、普段なら、「赤色」の文字は重要であることのサインであるにも関わらず、上記の「言語」の赤色は何か狂気を感じるのも面白い。人間だからそのような認識が出来る。

 

もはや、「言語」という言葉になにか闇が連合してしまったのではないか。

 

 

 

古典的条件づけが絡んでいるかもしれない。

「言語」という言葉と、読者が経験している僕と同じ微妙に不快なニューロン発火が連合を起こしているかもしれない。

 

 

 

 

 

ここまで来たら何を言っているかわからないかもしれないが、とりあえず、心は晴れました。

 

カタルシスといって、表現をすれば心が晴れるというものがありますよね。

このブログに書いたすべてが、僕の心の闇を支配している虫でした。

 

とりま吐き出せた。よかった。