「怒らない」というポリシー

こんばんは。宮岡です。

 

なんかやる気が出ず、作業スペースで本を読んでブログを書いて現実逃避をしています。

本を読みながら現実逃避するのは本当に自己嫌悪に陥らないし、実際現実逃避できるし、完璧な作戦ですね。

 

 

 

今日は「怒らない」というポリシーについてお話しします。

 

その前に、そもそも「怒る」という感情について色々考えてみる必要がありそうです。

 

人は何か期待外れのことが起きた時に「怒る」ことがしばしばあります。

例えば、定刻に何かを始めようとしていた所、友人の一人が遅れてきたときには「おい!なんで遅れるんだよ!」と一喝入れるでしょう。

 

そういう意味では、人に期待をしていない人怒りっぽくないということが言えると思います。

ここでいう「人に期待をしていない人」というのは、多くが「人に興味を持っていない人 / 興味が少ない人」だと思います。

 

 

更に、自分の倫理観のカバーする範囲が大きければ大きいほど、人は怒りやすくなる傾向がありそうです。

 

例えば、「先輩には敬語を使うべき」という倫理観がそれにあたります。この倫理観を持つ人にとって、タメ語を効いてくる後輩は怒りの対象となります。

 

僕は、自分の中での「倫理観」が少ない方です。

「こうするべき」という考えがあまりにも少ないので、何かを勧められた時に「それもいいんじゃない?」って考えになってしまいます。

 

だからこそ、「怒らない」という僕の中での「倫理観」に反する行為をされたときに僕の頭はバグります。

つまり、「怒る」という行為は僕の倫理観に反するので、それに対しては「ブチ切れるけど、怒らないという倫理観がある、でもだからこそ、怒る、でもそれは倫理違反」みたいなバグり方を起こします。

 

 

もちろん「怒る」人も社会には必要です。

だからこそ、僕は「怒る」側に回らなくてもいいかなと考えてしまいます。

 

ちょうど、人間の脳内にも興奮性の神経細胞抑制性の神経細胞があるように、僕は抑制的な働きをすれば社会は回る気がします。

 

 

しかし、「怒る」必要性というものは、人の不適切な行動を正す所に見出されます。

 

「不適切な行動を正す」という面で言えば、「そこまで怒る...?」と言いたくなるような事例もいくつか見受けられます。

 

例えば、生徒の2回目の遅刻を目撃した塾の先生が

「お前なんで遅れて来たんだよ。あ?すみませんじゃないだろ。まず、来て言うことがあるだろ。『遅れてすみません』ぐらいの一言は言えよ。・・・いや、今言っても遅くない?入ってきた直後に言えや。やる気ないなら塾辞めろよ。遅れていいなんて誰が言った?バスの遅延のせいにするなよ。そんなことなら1本早い便で来い。いや、言い訳は要らないから

 

いや、その言った言葉、全部が要らんわ。って言い返させてほしいです。

 

―ある不適切な行動をしてしまう理由には「遺伝」と「記憶」が挙げられます。

遺伝で言えば、例えば発達障害に見られるような時間感覚の欠如や、何かに熱中してついつい遅れてしまう傾向が挙げられます。

記憶に関しては、遅れても大丈夫だった経験が何回か繰り返されると、「遅れて大丈夫」という無意識の記憶が形成されます。

 

つまり、不適切な行動を是正するためには、薬などでそもそもの脳のシステムを改善するか、新たに適切な行動を促すための記憶を定着させるかのどちらかであるということになります。

 

前者は、日常一般の事に対してはあまり健全とは言えないので、後者について考えます。

 

新たに適切な行動を促すための記憶を定着させる」と聞くと、難しそうに聞こえますが、「怒る」という行為がそれそのものです。

 

「恐怖症」という言葉をよく耳にしますが、これは「高い所は本当に危ない」とか「閉じ込められた空間は危険だ」という無意識の記憶が非常に強く定着した結果であると言えます。

 

人間の記憶は曖昧なものですが、一方このように「恐怖症」と呼ばれるような強固な記憶システムも持っていると言えます。

 

ある意味、叱責によって是正された行動は軽度『怒られ恐怖症』による変化な気もします。

そう考えると、人を怒り散らして変えようとする行為は非常に不健全なものとして目に映ってしまいます。

 

 

それであれば、ある不適切な行動(例えば遅刻)を100%直してもらわなくても、説得や丁寧な指導を通して80%直してもらう方がよっぽど健全だと思います。

 

80%を治し続ければその内100に収束します。

(80治したら、後は20を治す必要があります。20を対象に治そうとし、16が治れば、4だけ残り、その4のうち3を治せば1だけ残り...)

 

 

だからこそ言葉は重要で、重要だけれども動物にでも出来るような、叱責による行動の是正には敵わない側面があります。

 

 

「怒」られた人は、後から振り返ったときに「怒られて正解だった」と感じますが、そんなものは後知恵です。後知恵バイアスです。

 

人の記憶なんて曖昧で、30秒前にしていたことさえ正確には思い出せません。

1年前の元カノとの思い出も正確には思い出せないし、小学校を卒業する時のあんなに悲しかった瞬間でさえ思い出せてもほんの少しです。

 

それであれば、その瞬間瞬間を楽しむことの方がよっぽど価値があると思っています。

 

僕は、旅行であまり写真を撮らないように意識しています。(0にはならない方がいいかなとも思いますが)

その瞬間を楽しむべきだし、写真を撮ったところで、後から振り返った時、その瞬間の様子を1%も思い出せないからです。

 

万が一写真を撮る時があれば、それは写真を撮ること自体を楽しんでいるのであって、その瞬間に「写真を撮っている自分」を楽しんでいます。

大抵、僕のカメラロールは散らかっていて、後で見返すなんて言うことはほぼありません。

 

 

 

―というポリシーの中で言えば、その瞬間瞬間(心理学的には「瞬間」と認識されるのは3秒間らしい)の中で、今ココで人を嫌な思いにさせる「怒る」という行為は、何となく僕には合わないなと感じています。

 

 

 

まあ、あまり共感されたことも無いので、狂った考えといえば狂った考えなのでしょうが、

 

まあいいや(^^)/

 

 

ちなみに、僕が中高生の頃は事あるたびに、机を蹴り飛ばして怒鳴って怒るタイプの人間でした。(大学の友達はその様子をマジでイメージ出来ないそうですが)

 

高校の頃に開けた自分の部屋の穴は数え切れません。それほど衝動的でした。

実のところ、遺伝的に衝動的だったし「怒っても大丈夫」という無意識な記憶が定着していました。

 

でも、実際は大丈夫な訳ありません。何かがぶち壊れます。

 

 

もちろん「怒る」スキルも大事ですが、寛容であることはそれ以上に大事です。