「怒り方」-罪と罰

こんばんは。宮岡です。

 

最近、罪と罰についてやたら考える日々が続いています。

 

あ、ちなみに夜中(今、朝の5時)に書いている記事なので、文章は支離滅裂かもしれませんが、お許しください。

 

 

結論、承認のない叱りっていうのは害悪です。

 

「何回言ったらわかるんだ!」とか

「なんで〇〇しないの?」とか

「そういうことしたら失礼だろ」とか

 

全部、人格の否定につながりかねない。

 

承認のかけらもないからです。

 

「最近〇〇で伸びてきていて、評価も上がっているのに、こういうことがあったから、皆ショックだったと思うな」

「お前優しいし仕事も出来るのに惜しい、なんでそこだけそれなん。惜しい」

 

みたいな叱り方じゃないと、叱られた側のメンタルは終わります。

 

 

 

YouTubeのコメント欄をフラフラ見てた時に、「遅刻癖」というワードが引っ掛かりました。

 

「遅刻癖があって、どうしても治らない。どうあがいても無理だ」というコメントに対して、

「いや、遅刻癖とか良いように言ってるけど、ただの自己中。やればできるんだから」っていうコメントが殺到していて、「いいね」の数も圧倒的に後者が多い状態でした。

 

なんか、意外でした。今のご時世、ADHDやらアスペルガーやら、色々心の特性を示す言葉が生まれていて、「十人十色」に深みが出てき始めているのかなと思いきや、こういう心ない価値観がはびこっていて残念でした。

 

 

僕は実際、高1の時にADHDアスペルガーの合併症と診断されました。

まあ、その中の項目の内困ったものを治せば普通に「当てはまる項目」は減らせるなと思い、数年の時を経てその辺の人間と同じようにふるまえるようにはなりました。

(多分、今は診断ひっかからないんじゃねぇかな)

 

しかし、「遅刻癖」というニュアンスの言葉はめちゃくちゃわかるんです。

 

時間の感覚が認識しずらい人と、そうでない人が世の中にはいます。

 

S字クランク・駐車がやたら苦手な人いるでしょう?

で、S字クランク出来なくて教官に注意されたら、うざいじゃんか。

 

そんな感覚なんですよ。空間認知も時間認知も話は同じで、得意不得意があるんです。

 

自分が得意な分野で、相手が出来ていないことを執拗に怒るのは情けなすぎる。

 

 

遅刻に怒る人は皆、時間を守ることが得意な人。

時間を守るのが得意な人が、その人にとっての劣位である「時間を守れない人」に理不尽に怒りを感じるのは当然なんです。

 

そういう、危険だけれども当然の心の働きを予知することもなく、放置して感情を本能のままに他人にぶつけるのは人間のやることではない。生物の自動的反応がそのまま出ただけ、人間の知性は0.

 

人の苦手分野はサポートしてあげるのが社会的動物である人間としての、倫理的に正しい行動だと思います。

 

 

 

で、高校生の時までADHDの衝動性とお付き合いしてきた僕にとっては、人に急に怒鳴り散らしたり怒りをぶつける気持ちもわかります。

衝動的に、フロントガラスをたたき割る28歳の男性の気持ちもめちゃくちゃわかります。

 

というより、僕も追々1回は捕まる気がしています。

 

いや、コントロール不能になるんですよ。ああいう人たちって。

 

うつ病で自分のやる気やモチベーションをコントロールできなくなる人のことは理解できるのに、衝動性で自分の行動をコントロールできなくなる人の存在は考えないのって、ただの勉強不足でまとめてはいけない問題が孕んでいる気がします。

 

思いやりの欠如でしょう。

 

犯罪者がただの悪者って思ってる人はなんなんですか。

ただの窃盗犯は悪者に仕立て上げるのに、「窃盗病」という正式な病名がついた瞬間許す人の認識はなんなんですか。

 

窃盗犯があなたと同じくらいメンタルに余裕を持ってるとでもお思いですか。勘違いですよ。それは。

 

僕たちも、「窃盗をする所まで心を追いやられた」ら、窃盗するんです。

人を殺める所まで心を追いやられたら、殺めるんです。

 

人間はそんなものです。コントロール可能な状況下で、犯罪する訳がないでしょう。

 

コントロールできないからコミットするんです。犯罪に。

 

 

って考えた時に、懲役刑って妥当なんですかね。

 

懲役刑の裏側を知らないので何とも言えませんが、少なくとも無期懲役はさすがに重すぎやしないかと思います。

 

「死刑制度に賛成ですか、反対ですか」っていうことをよく聞かれますが、

僕の答えは「悪いことをした人を殺めることに対して、痛々しさを感じる訳ではないが、まず捕まえる前にメンタルを治しちゃったらよくない?」です。

 

グループや家族の中に厳格な人間がいると、まとまったように見えるのも幻覚で、罪と罰で食いつなぐ社会は脆いものです。

 

外発的な圧力は、嫌な気持ちを伴いますから。

 

 

 

全ての人は、自分が自発的な意思で動いていると勘違いしています。

実際は、ほとんどが自動的反応で決まります。性格という制限・人間としての本能・学習された刺激と反応の体系、これらが相まって自動的な反応を起こします。いわば運命です。

 

例外は、創造的な心の働きをするときと、数学的な思考をするときぐらいだと思います。

 

僕のこのブログも自発的な部分と、自動的反応によって作られた部分があります。

自動的反応は「一旦ある程度まで書いたら読み返すという習慣」だったり「見ずらい部分を改行」するだったりというものが挙げられます。他にもこのブログの趣旨(アウトライン)そのものが僕の性格で作られている以上、自動的反応によって形成されていると言っても過言ではないでしょう。

自発的な部分で言えば、・・・どこですかね。「ブログを書こう」とふと思ったのは自発的かもしれませんね。

まあ、もしあなたが「具体的な線引きが難しい。それも自動的反応だろ」って思ったのであれば、人間の行動なんてその程度なんですよ。自動的反応で決まる部分も多いんです。

 

そういう人間の実際を体感していれば、犯罪者や遅刻癖のある人、他一般的に悪者と仕立て上げられる人を執拗に責めなくて済むし、真の人権を意識することが出来るはずです。